歌麿 春画展 北斎 ダ●チワイフ喜多川歌麿「深川の雪」(予告編)昨日、箱根の岡田美術館に行き、やっと喜多川歌麿「深川の雪」を見てまいることができました(今月末まで展示中)。 66年振りに発見された喜多川歌麿の肉筆浮世絵。大きさはタタミ4畳程度の大きな作品です。 眼福でした。 本物を肉眼で観るのは、この上ない幸せです。 しかし、この絵を観るためには、美術館の入場券を買うだけで約1時間待ち。 館内に入って、「深川の雪」を観るためだけに30分待ちです。あのパンダの「立ち止まらないでください」を思い出しました。 しかも、入場券が2,800円。 えっ、え~!? だけど、マジ、その価値はありました。 さて、この顛末は来週に(おいらの多忙につき、書き溜めた原稿がないので本日は予告編としました。お許しあれ)。 カミング・スーン! 平成26年6月27日(金) 謎の不良翁 柚木惇 記す 本日と明日はお休み 本日と明日は休日につき、お休みです。 写真は、昨日紹介した歌麿「深川の雪」のポスター。 これほどの大作が、66年もの間、よく人知れず埋もれていたものですなぁ。 奇跡としか云いようがありません。 それでは、皆様よろしゅうに。 平成26年6月28日(土) 謎の不良翁 柚木惇 記す 喜多川歌麿「深川の雪」(前篇) 先週、箱根の岡田美術館まで足を運んだ。 6月26日(2014年)のことである。このブログの予告編でも書き込んだとおり、歌麿の「深川の雪」を観たいがためである。 さて、岡田美術館とは聞きなれない名前である。調べてみると出来てまだ間がない美術館だと分かった。 では、岡田美術館の岡田氏とは誰なのだろうか。 おいらは、てっきり世界救世教教祖の岡田茂吉氏(故人)の関係者だと思った。箱根と云えば箱根美術館や熱海のMOA美術館を創ったのが岡田氏だからである。 しかし、違ったのである。 パチンコ・スロット機器製造を手がけているユニバーサルエンターテインメント(旧アルゼ)の会長、岡田和生氏であった。 米「フォーブス」誌によれば、2011年の個人資産ランキングで日本人ランキング14位、約2千億円の資産家である。近年では海外で高級カジノを展開し、カジノ王とも呼ばれているようだ。 その岡田氏が金に糸目をつけずに蒐集した日本絵画や陶磁器の美術館だという。 日本絵画では琳派、円山応挙、北斎、歌麿、横山大観、菱田春草、上村松園などいずれも一級品が蒐集されている。陶磁器も本家の中国や朝鮮のみならず、あの鍋島もふんだんにある。 そこに今回、66年振りに発見された歌麿の巨大な肉筆浮世絵が展示されるというのだから、これは行かない手はない。 しかし、おいらも忙しいのである。 この歌麿が常設展示にして貰えれば(この美術館の目玉になるであろう)、いつでも観ることができるようになるはずだと思い、美術館に会期終了後はいつ展示されるのかと聞いたところ、今のところ全く予定はないとの返事が返ってきたのである。 えっ、え~!? 少なくとも年内の展示はないと断言されたのである。そうだとすると、もう当分観ることはできないかも知れない。 おいらがわざわざ先週箱根に足を伸ばしたのは、そういう理由があったからである(この項続く)。 喜多川歌麿「深川の雪」(中篇その1) 箱根には車で行った。 おいらの自宅から東名に乗り、小田原厚木道路で箱根下車、そこから地べたである。片道約1時間半、そう遠くはない。 お昼に出て、午後1時半すぎに岡田美術館に到着した。余談だが、途中小田急線の終点箱根湯本駅の前を通った。若いころ何度も電車で箱根に来たことを思い出す。 さて、岡田美術館の駐車場である。入ろうとすると、げっ、駐車場が満杯である。こういうところの駐車場は広いはずだが(調べてみると、75台しか収容されない。ちょっと少ないか)、少々待つと1台出てきたので、駐車できた。ほっとする。 駐車場から美術館の敷地に入ると、風神雷神図が外から見える美術館とその前の足湯(写真上の右手)が目に入った。 この美術館の場所は、元は外国人向けホテル「開化亭」の営業場所だという。それで、温泉の源泉を活用しているのだ。足湯付きというアイデアは見事である。 写真を撮っていたら、人の数がどんどん増えている。ひょっとしたらと思ったら、入場券を買うための行列であった。最後尾にはここが最後ですよとプラカードの係員が立っている。慌てて並んだ。 行列を眺めると、女7~8に男2~3という割合か。圧倒的に女が多い。それも仲間内や団体である。平日であるが、女性は時間が自由になるからであろう。それにほとんどが年配である。 おいらの後ろも還暦を過ぎたであろうおばさん4人の集まりである。 このおばさんたちは用意周到で、美術館にはカメラと携帯が持ち込めないとか、深川の雪を紹介したテレビ番組(国営放送の日曜美術館など)の内容をしゃべっている。これからの日本社会は高齢のおばさんが仕切るような気がするのぅ。 カメラと携帯をロッカーに預け(無料)、1時間弱待って入場券2,800円也を購入(箱根の旅館などに宿泊すると200円引きの割引券が貰えるようだが、詳細は不明)。少々高いが、中に入ってみると、その価値は充分にあった。 入り口には金属探知機があって、これから飛行機に乗る錯覚に陥る。一点、ん億円のお宝がざらに展示されているので、ま、やむを得ないか。いよいよ入場である(この項続く)。 喜多川歌麿「深川の雪」(中篇その2) 入場すると、まず風神雷神のどでかい壁画(縦12メートル、横30メートル。日本画家、福井江太郎作)に出くわす。 あまりにもでかすぎるのと、その壁画の下がすぐ通路になっているので、近すぎて全景を観ることができない。つまり、この壁画は建物の外の足湯に浸かりながら観るように設計されているのである。 美術館は5階建てで、1階から4階まで美術品が展示してある。 まずは、壁画通路を通って1階の展示品である陶磁器を観る。 中国景徳鎮の陶磁器や、高麗・李朝の白磁・青磁の壺や茶碗などがうやうやしく飾ってある。しかし、これが見応え満点。1点、数千万円から億の値がつくようなものばかりである。 眼福とはこういうことを云うのだろう。 おいらはこういうものは本物を観るに如くはなしというM先輩の教えを守っているのだが、この収蔵品はやはりすごい。大阪の安宅コレクションを観ているような錯覚に陥ったほどである。 余談だが、要所要所に液晶タッチパネルの機器による作品解説が行われている。これが意外と便利である。 おいらはこれらの美術品に魅入ってしまい、この1階の展示品を観るだけで小一時間を費やしてしまった。4階部分までぎっしりと展示してあるので、下手をするとこの美術館をゆっくり観てまわると4時間はかかる計算になる。ひえ~。5時には閉館である。 歌麿を早く観たいので慌てて2階に上がる。目指す深川の雪は2階に展示してあるのだ。 なお、おいらの好きな陶磁器は2階にも展示してあったのだが、そこにはあの鍋島がふんだんに展示してあったのには舌を巻いた。薩摩切子もある。仁清もある。下品な云い方だが、金目の物しか置いていないのである(この項続く)。 喜多川歌麿「深川の雪」(後篇その1) さあ、いよいよ世紀の大発見、歌麿の深川の雪とご対面である。 2階の会場に入ると、正面中央部分に深川の雪は展示してあった。 美術館の2階はホールになっており、中央部分は目玉の展示品を置くように設計されているのである。心憎い設計である。 その正面中央は予想したとおり、人だかりであった。 しかし、人だかりの後ろでもこの掛け軸は巨大である(タタミ約4畳分)ので、見渡せないこともない。 様子を見ていると、この絵を近くで観るためには並ぶ必要があることが分かった。一列に横6人ずつが並び、二列一組が鑑賞するのである。その1回の鑑賞時間は4分。もう一度観たければ、再び並ぶと云う仕組みである。 この列が10列あったので、5組×4分=20分待ちであったから、おいらもやむなく順番に並んだ。 そして、やっと、ご対面である。 想像を絶する作品であった。 まずは、その大きさである。 浮世絵でありながら、縦一間、横二間の感じの大きさである。深川の雪は、歌麿の雪月花の三部作のうちで一番大きい。やはり圧倒されるという表現が一番似合っている。 次に、肉筆である筆さばきとその見事な色彩である。 間違うことなき歌麿の筆使いと見た。写楽の下手な肉筆とは全く異なる。歌麿はやはり絵の天才だったのだ。 それにあでやかな色彩。修復したとは云え、幸運にも作成当時のオリジナルの色合いがほとんど残っていたという。よくぞ、ここまでこの絵は生き延びていたものだ。恐らく掛け軸ということから普段は巻いた状態のままだったので、褪色しなかったものと思われる。 この絵のおいらの観方は、次のとおり。 まずは、全景を眺める。そして、絵の中の27人の人物を左側から一人一人観ていく。最後にもう一度全景を観る(下の写真は、絵の中央から左上部分)。 全景も良し。一人一人の描写も良し。 4分間しか観れなかったが、この目にしっかりと焼き付けたのである。とにかく、この絵は自分の眼で観るしかない(この項続く)。 喜多川歌麿「深川の雪」(後篇その2) さて、おいらがこの絵を観るまでの興味は2つであった。 この絵が歌麿の贋作ではないかということと、どういう流転をしたのか、という2点である。 まずは、贋作の可能性であるが、真作と考えて間違いないようだ。 それは歌麿研究の権威である浅野秀剛氏(大和文華館館長)のお墨付きがあるからだけではなく、絵の醸し出す雰囲気である。恐らく、現存する三部作の内の二つである「品川の月」と「吉原の花」との比較も行い、相似点を調べたに違いない。 では、なぜ、贋作の可能性があると思ったのか。それは肉筆の浮世絵が極めて高価であることと、贋作を創りやすいことからである。 古くは、このブログでも取り上げているが、春峰庵事件の例がある。しかし、この話しを始めると長くなるので割愛する。 次に、この絵はどこから出てきたのか。どこに眠っていたのか。 約200年前に描かれた絵である。 描かれた場所は栃木と推定されている。 当時の有名な狂歌仲間の一人に栃木の出の豪商「善野喜兵衛」がいたのである。その豪商に依頼されて雪月花の三部作を創ったものにほぼ間違いないと云われている。当時の栃木は水運の街で、江戸から川を伝って行くことができたようだ。 その三部作は明治12年まで善野家に保管されていたが、その年、栃木の定願寺の展観でお披露目(そのときの白黒写真が残っている。写真下)された後に、誰かに売却されることになる。 その後行方は分からなかったが、明治20年になってパリの美術商ジーグフリード・ビングの手にあることが分かる。 続いて、この絵はパリに店を構えていた美術商青山三郎の手に渡り、パリに13年間滞在していた浮世絵の収集家長瀬武郎が戦前に買い求めたとされる。 そして、敗戦間もない昭和23年に銀座松坂屋で開催された「第二回浮世絵名作展覧会」にわずか3日間(評判が良く延長されたらしい)の展示が行われた後、約70年間ようとして行方が知れなかったのである(他の2作は、その後いずれもアメリカに渡り、美術館に収まっている)。 だが、この絵は今年の2月に古美術商の手に入り、再発見されたというのがこれまでの経緯である。 この絵が再発見されたときの詳細な情報は公にされていないので、約70年の間、どのように流転したかは不明のままであるが、いずれそれも分かるときが来るであろう。 それほどまでに興味をそそる絵に違いないということである。 なお、最後に。この美術館の閉館間際の午後5時までいたが、おいらは精気を吸い取られた。それほどまでにこれまで述べた作品の訴える力は、強かったのである(この項終わり)。 永青文庫の「春画展」に行く(前篇) 文京区目白台の「永青文庫」で、先月から「春画展」が開催されている。 この火曜日に落語通のSさん(このブログのフリーページ「高座の愉しみ『落語のことはSさんに教わった』」参照)と一緒に目白まで足を運んだ。 JR目白駅からは徒歩で25分程度かかるので、都バスに乗車するのが便利だ。目白駅前から「新宿駅西口行き」に乗車して、椿山荘の手間で下車すれば、数分で永青文庫に到着である。 入り口まで着いて驚いた。平日の昼だというのに早くも入り口が混雑しているのである。 何せ一昨年、大英博物館で出品された春画の日本国内初の展示である。 某大新聞がそのとき頑張って国内展示を試みようとしたのだが、どの美術館も二の足を踏み、開催にこぎつけることができなかったといういわくつきの美術展である。 それが、細川元首相(細川家第18代)が理事長を務める永青文庫で今般開催されたのである。 この永青文庫での展示会は前期(9月19日~11月1日)と後期(11月3日~12月23日)に分かれている。 前期の早いうちに大英博物館学芸員による講演会が開催されたので(入場は抽選)、おいらも申し込んでおいたのだが抽選にはずれたのと、会場は盛況で混雑していると聞いていたから、もうそろそろ落ち着いたろうと思って会場に入ったのだが、期待外れの大混雑。芋の子を洗うような込み具合であった。 会場を観ての感想は明日以降に詳細を述べるが、まず、なぜおいらが春画に興味を持ったかということから始めなければならない。 それは小説の題材として、5年以上前に写楽を調べ始めたからである(このブログでも写楽を多数取り上げている)。写楽は謎の多い浮世絵師である。そして、その写楽を知れば知るほど蔦谷重三郎を、蔦谷重三郎を知れば知るほど歌麿や浮世絵を調べなければ片手落ちだと気付いたからである。 ところが、浮世絵の世界は奥が深い。この深い、深い浮世絵の世界においらはどっぷりとはまってしまったのである。 最初は美術館で浮世絵を眺めているだけであったが、調べていくうちに手元に浮世絵がなければ話しにならないと思うようになる。本物を手にしていないのに浮世絵の本質を論じることなどできない。 だから、写楽の後刷りの場合、程度の良いものは最低でも一枚数万円するのだが、我慢できなくなって購入するようになる(写楽の江戸時代の本物なら今では1億円と云われる)。 それがいつの間にか後刷りではなくて、江戸時代の本物の浮世絵を手にするようになり(安いものなら手に入る)、その浮世絵の世界に入ると、浮世絵と春画は切っても切り離せない関係だと気付くのである(この項続く)。 本日と明日はお休み 本日と明日は休日につき、お休みです。 写真上は、宵闇迫る永青文庫。 永青文庫は、昭和25年、第16代当主細川護立氏(元総理のお爺さん)によって設立されました。 同氏は旧侯爵、貴族院議員であり、「美術の殿様」と云われたようです。多くの旧大名家が伝来の名宝を売却する中、氏は美術品収集家としてそれらの美術品が散逸するのを防いだのです。 また、同氏は横山大観、下村観山、菱田春草など多くの画家たちを支援し、日本画の発展に尽くしました。 そう云う経緯のある永青文庫なのです。まことに文化を継承するというのは、こういう縁の下の力持ちなくしては語ることができません。 永青文庫はエライ!! それでは、皆様よろしゅうに。 平成27年10月24日(土) 謎の不良翁 柚木惇 誕生日に記す(とうとう初老の年齢になってしもうた。) 永青文庫の「春画展」に行く(中篇) だから、おいらも木版画から春画の世界に入った(写真は歌麿の木版画「上品の女房」。このブログのフリーページ「おいらの好きなもの『柚木惇の秘蔵コレクション3』」参照)。 ちなみに、春画は肉筆と木版画に分かれる。肉筆は一点ものだから大名などが所蔵し、門外不出である。したがって、庶民の目にふれることはほとんどない。 他方で、江戸の印刷技術は世界に誇る木版画(錦絵)を誕生させた。それが、春画の世界に伝播するのは時間の問題であった。木版画の普及が庶民に春画を見ることができるようにさせたのである。庶民が浮世絵を観ることができたり、手にすることができたのは、版画による技術革新のせいであった。 今回の永青文庫の春画コーナーも4階から2階に降りる構成となっており、4階は肉筆浮世絵(春画)、3階と2階が木版画の構成である。 肉筆は大名が金にあかして注文し、上述のとおり「禁帯出」であった。当主と内輪しか観ることができない。だから、今回の展覧会ではそういうエスタブリッシュメントしか観ることができなかった逸品が鑑賞できるのである。 これに対し、木版画は多数生産されるものであるから、今で云うポスターや週刊誌のようなものである。 この木版画は一枚もの(通常12枚でセット)と版画本に分かれる。 歌麿や北斎の春画は、この一枚ものシリーズや版画本で大人気を博したのである。 さて、そのころ突如出現したのが写楽であった。 その写楽の正体は長い間不明であり、写楽の別人説として北斎や歌麿などがあげられている。北斎は勝川春朗と名乗っていたころ筆を折っており、その期間が写楽の活躍した時期と重なるからである。 北斎は有名な蛸の絵の春画を描いており(今回その蛸が掲載されている版画本が展示されている。写真)、また歌麿も「歌満くら」という傑作を残している。 これは当時、浮世絵師が春画を描くのは当たり前で、描いていないのはもぐりであった。だから、写楽を調べていくうちに春画にたどり着くのは必然であった。 写楽も春画を描いていた可能性は否定できないが、写楽の春画は写楽と云う名前では残されていない。だから、写楽の描いた春画がもしも発見されれば、世紀の大発見になるのであるが…。 閑話休題。 永青文庫の館内は混みあっていた。しかも、皆が春画の前で立ち止まっているので混雑は増すばかりである。係りの女性が「観る順番は決まっていませんので、空いているところからご覧ください」と云っているが、空いているところなどない。 これでは、あたかも満員電車の中の様相である。 そういう状況の中で老若男女の観客全員が男女和合の絵を一心不乱に観ているのである。若い女性の姿も目立った。ある意味でこれは不思議な光景である(この項続く)。 永青文庫の「春画展」に行く(後篇) さて、今回の展示で最も感銘したのは、肉筆の「狐忠信と初音図」(春画屏風。江戸時代。個人蔵。写真下)である。 こりゃ、すごみのある最高傑作である。 江戸時代の作で、大きさといい、屏風仕立てといい、もともとは遊郭に置いてあったものと推察されている。 この屏風は、今で云うポップアップ風であって、忠信の草刷り(戦国武将の鎧の一部の名称。銅回りの下の太腿を守る部分のこと)が普段は下がっているのだが、これをめくると(ポップアップ)、男女の交合の部分が現れる仕組みである。 春画を調べていくと珍しくはないアイデアだが、これだけでかい屏風でこのような仕掛けをするとは驚きである。必見ものである(前期のみの展示)。 そのほかにも鳥居清長の「袖の巻」など国宝級の木版画が目白押しであり、また、細川家や福井藩主松平春嶽秘蔵の私家版なども展示してあるので舌を巻くこと請け合いである。 春画鑑賞でのポイントを一つ挙げると、それは芸術画であるか、猥褻画になっていないかという点である。下手な春画は猥褻画になるのである。特に、海外の春画はダメで、ほとんどが猥褻画である。芸術画と猥褻画の差は紙一重の場合が多く、春画は厄介なのだ。 また、春画が難しいのは男女の顔を正面に見せて、かつ、肝心の部分を表現しなければならないことである。だから、ある意味でアクロバット気味の絵となり、技量のない画家が描くとデッサンが狂ってしまうのである。 実際、今回の永青文庫で展示されていた肉筆画や初期の木版画の多くは男女の胴が長くなってしまい、デッサンがでたらめである。 同様の例としてアングルのオダリスク(写真下)がある。このような長い背中は実際にはない。しかし、それが気にならないのはアングルの描写力が優れているからである。 清長、歌麿や北斎なども同様で、見事な表現になっていることに注目すべきである。 さて、今回の展示を観ての注文を一つ。 それは、展示会場が狭すぎるのである。 あれだけの銘品が揃っているのに、巻物(肉筆)はごく一部の開陳でしかない。木版画本(黄表紙)は代表的な頁の見開きしか展示されていないのである。 箱根の岡田美術館でも北斎の大傑作「浪千鳥」を展示していたが、全頁を展示していた。春画は本来12枚で揃いであり、そうしなければ展示したことにならない。 それだけが残念である。 とまれ、このような美術展が開催されたのはおいらのような浮世絵ファンにとって夢の様な話しである。 細川のお殿様の大英断に大拍手!! 最後に。永青文庫の春画展にはスポンサーが1社もついていないというのは、どういうことなのだろう。 また、異国である大英博物館で日本の春画展が開催されたのに、本家本元の日本の国立美術館で春画展が開催されないというのは日本の文化程度がまだ三流の証ではないかと思うのである。 この展示会を機に、国内の大美術館で春画の企画展が開催される日がくることを願うものである(この項続く)。 永青文庫の「春画展」に行く(番外篇)「週刊文春編集長『3ヶ月休養事件』について」 永青文庫の「春画展」は、週刊誌などのマスコミもこぞって取り上げた。 その中で週刊文春編集長「3ヶ月休養事件」が発生したのである(15年10月9日付産経新聞。写真上)。 報道によれば、週刊文春の10月8日号(10月1日発売)のグラビアページに春画を掲載し、配慮を欠いた行為として、週刊文春編集長を3ヶ月間の休養としたとしている。 文芸春秋社広報部によれば、「編集上の配慮を欠いた点があり、読者の信頼を裏切ることになったと判断した。編集長には3カ月の間休養し、読者の視線に立って週刊文春を見直し(後略)」とある。 おいおい、「読者の信頼を裏切る」とはどんな記事だったのかよ、どんなグラビアだったのかよ~と、おいらは物好きにも週刊文春のバックナンバーを注文したのである。 待つこと2週間、その文春をやっと拝見することができた。 それによれば、どうやら歌川国貞の「艶紫娯拾余帖」のページ(写真下)が文芸春秋社上層部のお怒りに触れたようである。 しかし、ちょっと分からない。それは、この程度のもので編集長を休養にするとはどういう了見か、ということである。 なぜなら、週刊ポストのグラビアでは同じ歌川国貞の「艶紫娯拾余帖」を堂々と掲載していたからである(もちろん、袋とじなどではない)。 他の週刊誌でも同様の企画が行われており、袋とじの場合もあるが、今や出版物での春画の掲載は珍しいとは云えない。 これは前回でも書いたが、春画を芸術と考えるか、猥褻画と考えるかの差ではないであろうか。文芸春秋社の上層部は、ひょっとしたら春画=猥褻派なのかもしれない。そうだとすると、同社の文化レベルが知れるというものである。 これに対し、同社からは週刊文春は他の週刊誌と違い、自分たちは上品な週刊誌であるとの反論が予想されるのでおいらの意見。 もし、文芸春秋社がそう主張されるのであれば、週刊文春の「淑女の雑誌から」というエロページの掲載は当然お止めになられるのでしょうねぇ。歴代の編集長も皆、休養でしょうねぇ。 だから、「読者の視線に立って週刊文春を見直し」というのはちょっと理解しづらいのです。 すんません。これ以上の議論は野暮。 だけど、今回の事件では文芸春秋社の内部で何らかの権力闘争などがあったのかもしれん。ま、おいらには真相がよく分からんが…(この項終り)。 「永青文庫シンポジウム」に出向く(前篇) 先月(2015年11月)の28日(土)、永青文庫で「春画展開催記念シンポジウム」が開催された。 入場(定員400名)は抽選のため、おいらは往復はがきを送っていたのである。当選して入場券が送られて来たので、目白まで出向いた。 会場は、永青文庫の隣「和敬塾大講堂」である。 この和敬塾は学生寮として有名で(村上春樹も一時入寮していたという)、また、大講堂で行われる講演会は各界の著名人を招いてのもので、錚々たる面々の色紙が大講堂前の廊下に陳列されている(写真下)。 さて、当日のシンポジウムは午後1時から4時までである。おいらは12時半に会場に入った。 入場料千五百円を払って、プログラムをもらう。 座席は自由席で、この時間では三分の一程度の入りであったが、やはり最終的には満席となる盛況ぶりであった。 周りを見渡すと男性と女性の比率は7対3か。意外に若い女性が多いのに驚く。 プログラムによれば、シンポジウムは第1部が基調報告で、第2部が討議である。 基調報告は、「肉筆古春画」「上方の版画」「江戸時代の春画の受容と規制」「明治時代にできた猥褻の概念」「大名家と春画」であり、その講演者は国際浮世絵学会、国際日本文化研究センター、東大、永青文庫の方々である。 この日も永青文庫は大盛況で、累計入場者数は15万人になったとの報告がなされた。こりゃスゴイワ。 1日平均約2千4百名の入場となり(連日超満員)、入場料は千五百円なので、単純計算すれば既に2億円の売り上げである。 この春画展、本邦で開催されるまでは難産の連続であり、開催が決定するまでに、約20回立ち消えとなっていたことを思うと嘘のような話しだ(この項続く)。 「永青文庫シンポジウム」に出向く(中篇) この春画展、来年は京都の細見美術館でも巡回展が開催されることになった(2016年2月6日~4月10日)。 東京の永青文庫で開催されている「春画の名品」のほかに、京都の西川祐信や大坂の月岡雪鼎の版画作品を通して、東京会場とはまた一味違った春画の魅力に迫るものとしている。 細見美術館のホームページによれば、「狩野派や土佐派・住吉派と春画との関係をさぐり、大名から庶民にまで広く愛された肉筆春画と浮世絵春画が一堂にそろう展示となる」としている。 そのことが最初の基調講演である「肉筆古春画」の講師早川聞多氏(春画の大家)によって紹介された。 以下、基調講演で面白かったことを述べる。 古春画の定番「古柴垣草紙」である。これは皇室の一大スキャンダル(皇女済子がイケメンの平致光と密通)であった実話を絵草紙にしたものである。 時代は986年。時の権力者は後白河法皇。平清盛の娘、徳子が高倉天皇に入内するときに後白河法皇が当時の最高の絵師に創らせたもののようだ。 そのこと自体は目新しい話しではないが、早川聞多氏は真言密教の一派である「真言立川(たちかわ)流」にも触れられたのである。 この真言立川流は男女の交合を持って即身成仏の境地に立つとし、中世には非常に流行したが、邪教として異端視されたという。 その経典が「理趣経」と呼ばれ、後白河法皇が生前書いたとされる国宝「白描絵料紙(はくびょうえりょうし)理趣経」に通ずるのである。 何が云いたいかといいうと、当時の宗教は性と関わっており、これが春画と関連しているのではないかと早川説が披露されたのである。 この考え方には一理ある。おいらは寺社巡りが好きなので密教系の曼陀羅を観ることがあるが、男女交合の図が入った曼陀羅もある(東京目黒にある某寺など)ので不思議とは思わない。 当時、法然や親鸞、日蓮などが旧来の戒律を破って(酒色など)新しい仏教を台頭させたことを考えると、仏教美術と性の関連性が春画を解くカギになる可能性は十分にあろう(この項続く)。 「永青文庫シンポジウム」に出向く(後篇) 基調講演でもう一つ面白かったのが、東大木下直之教授の猥褻論「明治時代にできた猥褻の概念」である。 結論から述べると、明治10年代までは春画は猥褻とは認識されていなかったのである。それが、当時の政府によって性風俗が規制され、春画が猥褻と認定されたのである。 実際、江戸時代には男女とも半裸でいることは珍しくなく(特に地方)、行水も外から観える場所で行われていた。銭湯も混浴で、春画は「笑い絵」と呼ばれ、子供が性のことを知っているのはごく普通の出来事であった。 だが、時代は明治になり、欧米列強と肩を並べるために政府は外国に倣って性風俗を先進国と同じにしたのである。 とどめを刺したのが、旧刑法(明治13年施行)259条であり、猥褻という用語が初めて使用されたのである(それまでの文献では好色や淫乱という言葉しか見当たらないことを丁寧に検証しておられる)。 ところで、木下直之教授の話しで面白かったのは「週刊現代VS週刊ポストの春画戦争」である。 両誌は春画の掲載でしのぎを削っていたが、ここに来て「週刊現代が春画の実写を袋とじにした(11月28日・12月5日合併号)」ことでポストに大きく差をつけたと評しておられた。ユーモアじゃのぅ~。 もう一つ。 週刊現代、ポスト、週刊大衆、アサヒ芸能の4誌が警視庁に呼ばれた事件である。当局によると、「春画自体は猥褻文書ではないが、ヌードグラビアと同時掲載にすると猥褻性が協調されるので好ましくない」と指導されたという。 う~む、猥褻文書ではないのにヌード写真と一緒だと猥褻性が協調されるというのは非論理的(ゼロはいくら掛けてもゼロ)だが、気持ちが分からんでもない。 なお、このブログでも述べた週刊文春は上品な雑誌だからヌードグラビアはなく、桜田門には呼ばれていない。しかし、編集長が謹慎になったことは既報のとおりである。 木下直之教授によれば、文芸春秋社は3か月も休みをくれ、その間、給料もいただけるという今どき珍しい良い会社だとコメントしておられたことを付言しておく。ユーモアじゃのぅ~。 とまれ、シンポジウムがこの春画展を評価していたのは、春画を観るためにはこれまで海外に行くか(大英博物館など)、国内の好事家コレクターにお願いして観せてもらうかの2つしかなかったのに、美術展で閲覧できるという道を開いたという功績である。 永青文庫、東京目白でまだ23日まで開催中である(この項終り)。 (号外)「若冲展」は5時間20分待ち 明日まで開催予定の「若冲展」は、最大5時間20分待ちだそうである(16年5月21日現在)。 この若冲展に、関ネットワークスの編集長から行かないかとのお誘いを受けていた。 テレビなどの特集番組が組まれ、今回の若冲展は必見とのお触れがあったのでおいらは二つ返事で了承したのである。 5月16日(月)のことである。この展覧会は24日(火)までだが、月曜日は休館と考える人もいて空いている可能性があるとにらみ、この日に上野に出向くことにした。現にこの展覧会の過去の実績でも月曜日の観覧者は少ない。 実は、おいらはその二日前(土曜日)に黒田清輝展に出向いていた。そのときの若冲展の待ち時間が160分(2時間40分)だったのである。これをクレージーと呼ばずして何と呼ぶのであろうか。 しかし、おいらはこれが土曜日の一過性だと考えていたのである。 ところがどうして、月曜日の午後3時に上野に到着したら、同じ160分待ちだったので腰を抜かした。閉館は5時半である。今、並んでも閉館の時間に入場できない計算である。 なのに、長蛇の列。 都の職員とおぼしきプラカードを持っている関係者に聞いたら160分待ちとは2,500人の行列だという。 ヒエ~!! 驚くのはまだ早い。この日の情報によると、朝6時の段階で約10人、午前9時で1,000人、開室時間の9時半で2,500人が行列しているのだそうだ。 これは異常を通り越している。それなのに、主催者である都は開始時間を早めたり、終了時間を午後9時まで延長するなどの手を何も打っていない(ただし、夕方の入館時間までに並べば閉館時間になっても入館できるらしい)。 それはさておき、R25の5月21日号によれば、 「若冲展の待機列。公園入口の交番近くに、210分待ちの看板が出てました…」(5月16日) 「平日、雨の天気で260分待ちの若冲展、すごすぎる」(5月17日) 65歳以上が無料となる「シルバーデー」の5月18日には、 「10:45現在でついに320分待ち!!」 「若冲展、本日、シルバー無料デイだけど、一時、入場320分待ちって、一体、何なの? 5時間20分待ちは凄い!」 と、ついに5時間超えを記録。あまりの待ち時間の長さに、ツイッターには、 「待ってる間に映画2本観られるのか」 「えーと若冲展は『待ち時間の長さで世界記録を作ろう!』的なキャンペーンでもおこなわれているのでしょーか…?」 「ネットをしていない老人層に若冲展の混雑を知らせるには、もう、朝のNHKニュースの画面隅に『若冲展昨日の最大待ち時間240分』って出すしかない」 と掲載されていた。 これまでの最長記録は昨年の鳥獣戯画の6時間待ちらしいが、いやはや、なんとも。 北斎の本当の仕事は73歳から(前篇) 本日から3日間は、関ネットワークス「情報の缶詰」(2016年11月号)に掲載された「北斎の本当の仕事は73歳から」をお送りします。 北斎の本当の仕事は73歳から 20世紀が終わる1999年の米雑誌「ライフ」で「この千年で最も重要な功績を残した世界の人物百人」の特集が組まれ、日本人ではただ一人だけが紹介された。 北斎である。 1.奇行、絵の鬼、長命の人 葛飾北斎(宝暦10年(1760年)~嘉永2年(1849年)。享年、数えで90歳)は江戸時代後期の浮世絵師。代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」「蛸と海女」がある。生涯絵を描き続け、その数3万点を超える作品を残した。 画家はよい絵を描くだけでよいのか、人間としても立派であることが必要かという議論は、この人の前では不要である。 明治に行われたインタビューによれば、北斎は雑な手織りの紺縞の木綿、柿色の袖無し半天しか着ず、絹や流行の服などは生涯着なかった。六尺の天秤棒を杖にし、履くのはわらじである。 酒は飲まず、料理は買うか貰うで自分では作らなかった。だから家には食器がなく、包装の竹皮のまま食べてゴミをそのまま放置した。 掃除をしないのでゴミ屋敷になり、それが原因で生涯93回引越しをした。そのように乱れた生活でありながら長命だった理由は、彼が毎日クワイを食べていたからだという。 秋口から初春まではこたつに入り続けた。どんな人が訪れようとも画を描くときもこたつから出ることはなく、疲れたらそのまま寝、目覚めたら画を描き続ける。昼夜これを続け、こたつ布団にはしらみが大発生した。 これでは、一人やもめの押し入れにキノコが発生した松本零士の「男おいどん」の世界と変わらない。 北斎は生涯、極貧であった。北斎の画工料は通常の倍(金一分)であったにもかかわらず、なぜ貧乏だったのであろうか。 金銭に無頓着であったからでもあるが、画工料が送られてきても包みを解かず、数えもせず机に放置しておく。米屋、薪屋が請求にくると包みのまま投げつけて渡したからだという(この項続く)。 北斎の本当の仕事は73歳から(中篇) 2.絵が巧くなったのは73歳から 北斎は生涯、絵の研究をし続け、晩年になっても画法の研究を怠らなかった。 彼は「人物を書くには骨格を知らなければ真実とは成り得ない」として接骨家のもとに弟子入りし、接骨術や筋骨の解剖学をきわめ、やっと人体を描く本当の方法が分かったと話している。 さらに、北斎の代表作として知られる「富嶽三十六景」の跋文(後書き)には、次のように述べている。 「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは云え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。 (そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。 ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。 (そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ」とある。 すさまじいばかりである。冨嶽三十六景は天保4年(1833年)に完結しており、このとき北斎は73歳。だから、北斎はこの年になってやっと絵が描けるようになったと述べているのである。 実際、弟子の一人によれば、「先生に入門して長く画を書いているがまだ自在に描けない…」と嘆いていると、娘阿栄が笑って 「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。何事も自分が及ばないと自棄になる時が上達する時なんだ」 と云うと、そばで聞いていた北斎は「まったくそのとおり」と賛同したという。 北斎の晩年でさえも毎日が勉強であったのだ。こうしてみると、凡夫のおいらもまだ前期高齢者になったばかりである。人生はこれからだと戒めなければならない(この項続く)。 北斎の本当の仕事は73歳から(後篇) 3.改号と引越し 北斎は、生涯に30回改号している。 使用した号は「春朗」「北斎」「画狂人」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「月痴老人」「卍」「百姓八右衛門」などである。 「北斎」が有名なのは、「北斎改め為一」あるいは「北斎改め戴斗」などとしていたからであり、北斎は北極星および北斗七星にちなんでいる。 なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を売ったためとされる。ちなみに「北斎」の号さえ弟子に譲っている。 また、現、東京都墨田区で貧しい百姓の子として生まれた北斎は転居すること93回であったが(一日に3回引っ越したこともある)、その彼が引越しを止めた理由は、93回目の引っ越しが以前暮らしていた家への入居だと気付き、彼が部屋を引き払ったときと同じまま散らかっていたためだという。 なお、江戸は火事の街であったが、北斎は引っ越しを繰り返しながら75歳になるまで奇跡的に火災に遭わなかった。 それが自慢で「鎮火御札」を描いて売っていた。だが、75歳のときの火災で全財産を失い、乞食同然になる。このときの火災で若い頃から描き貯めた絵や資料を焼失し、以来、北斎は蒐集を止める。 また、晩年の一時、84歳のとき長野の小布施に旅し、そのまま4年間小布施にも住んでいた。このとき描かれたものが小布施の町の祭り屋台の天井絵であり、岩松院の天井絵である。 4.大往生 嘉永2年(1849年)、北斎は江戸浅草聖天町にある遍照院境内の仮宅で臨終を迎えた。 死を目前にした彼は大きく息をして「天があと10年、命長らえることを私に許されたなら」と云い、さらに、「天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう」と云いながら亡くなったという。 辞世の句は、「人魂で行く気散(きさん)じや夏野原(人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか)」である。 彼の代表作「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」の波頭が崩れるさまは、ハイスピードカメラなどがない時代にリアルに表現されていることに驚く。 ゴッホが賞賛し、またこの絵から発想を得たドビュッシーが交響詩「海」を作曲するなど西欧の芸術家にも多大な影響を与えた。 また、「北斎漫画」を始めとする版画本は、絵画技術の普及や庶民教育に多大の貢献をした。北斎60歳のころの春画「喜能會之故眞通の一図「蛸と海女」は傑作である。彼は性の探求にも妥協しなかったのである。 葛飾北斎、すごい男であった。耳が大きく、当時としては大男で身長は180センチもあったという(この項終り)。 本日と明日はお休み 本日と明日は休日につき、お休みです。 写真上は、新宿西口から望む富士山。 今週、新宿で某忘年会がありましたので、久し振りに新宿西口駅地下構内を歩いていましたら、この写真のパネルに巡り合いました。 晴れた日には、新宿から富士山が観えるのです。 高層ビルと富士山のコントラスト。新宿はマンハッタンのように高層ビルが乱立し、その陰に富士山。 北斎が生きていれば、どのように描くのでせうか。 それでは、皆様よろしゅうに。 平成28年12月10日(土) 謎の不良翁 柚木惇 記す 世にも奇妙な展覧会(前篇) 本日から三日間は、関ネットワークス「情報の缶詰」2017年6月号に掲載された「世にも奇妙な展覧会」をお送りします。 世にも奇妙な展覧会 忙しいときに限って、急用が生じることがある。おいらは現在引越しの準備でてんてこ舞いなのだが、M師匠からメールが入ったのだ。 「誰かが書いていましたが、『こういう展示は今度いつ見られるかわからない』というのはそのとおりでしょうね。あと2日しかありませんが、ご興味とお時間があったらどうぞ」 ん?なんだろう?とおいらは、M師匠のメールに添付してあるURLを開くとそこは禁断の世界だったのである。 1.オリエント工業40周年記念展「今と昔の愛人形」 それは、何とダ●チワイフの展覧会だったのである。 オリエント工業とは昭和52年(77年)に特殊ボディーメーカーとして東京の上野に創業したダ●チワイフの製造メーカーということである。 案内によるとこの会社のコンセプトは単なる「ダ●チワイフ」ではなく、人と相対し関わり合いを持つことができる「ラブドール」を創ることだという。 ま、それはさておき、おいらのダ●チワイフのイメージは南極1号であり、彼の地ではそういうものが必要なのかと子供心に不思議に感じたことを思い出した。 同時に、このような世にも奇妙な展覧会は後先滅多に開催されるものではなかろうと、引越しの準備で部屋中が荷物だらけにもかかわらずおいらは東横線に飛び乗って会場である渋谷に向かったのである。 2.待ち時間50分 この展覧会、5月20日が初日で開催期間はわずか1か月間。だから、おいらが出かけた土曜日の夕方は残り2日目である(午後9時まで展示)。 M師匠は残り5日目で待ち時間が10分で入場できたというから、1時間待ちを覚悟して会場に急ぐ。会場は東急百貨店本館先のビルである。 遠目に観ても行列が並んでいるのが分かる。 驚いたのは若い人がほとんどだということとグループばかりである(特にカップルが多い)。おいらのように初老で単独というのは珍しい。 そうか、開催情報は恐らくネットやラインでなければゲットできないのだろう。だから若い参加者が多いのである。 午後6時10分到着。最後尾を探し、並ぶ。 最後尾は若い女性のカップルであった。気まずいが(ウソツケ)、並ぶ。二人の会話をそれとなく聴くと、看護師だろうか、医療用になればよいとか云っており、片方の女性が実際に触ったことがあると話している。 30分経過して入り口まで約20メートルのところに着くと係りの女性から声をかけられた。 「現在、場内は満員で入場制限しており、ここで8時入場の入場整理券を渡すのでそれを持参すれば8時に待ち時間なしで入場できる。しかし、このまま待つと30分程度はここで再び待ってもらうことになる」という。 おいらには引越しで時間がないのである。そのまま待つと伝え、再び並ぶ。そうすると運よく20分程度で入場できた。つまり50分待ちであった(この項続く)。 世にも奇妙な展覧会(中篇) 3.場内は芋の子を洗うよう エレベータに乗って入場する。 驚いた。入り口まで人が溢れている。 入場料の千円を払い、場内を見学しようと一歩踏み入れたが、全く前に進めない。中は満員電車のラッシュ並み。熱気むんむんで換気は悪く、人の頭ばかりである。 上野動物園でパンダを観たときはそれでも一列で観ることができたので15秒でも満足感があったが、これでは浅草のサンバ祭り並みである。 それでも人の流れは必ずとぎれるもので、運よくおいらも前列の流れに入り込むことができた。 いやはや凄い、凄い。目の前に最新式のダ●チワイフ、いや、ラブドールがある(いる)。 これはアンドロイドだ。暗闇で観たら人間と見まがうばかりだろう。実に精巧に造ってあり、シリコン製なので手触りさえも肌に近いはずだ。 ただし、実物大といいながらちょっと小柄である。いや、小さいという印象か。 この展覧会では人形を触ってはいけないのだが、近くまで寄ることは可能である。しかも、写真撮影がOKである。目の前にある(いる)ので接写もできる。 4.展示にも工夫が さて、場内には歴代ラブドールが展示してある。オリエント1号などの歴代ラブドールが紹介されている。初期のものは化粧が濃く、やはり歴然とゴム人形である。 もともとオリエント工業の土屋社長は上野でアダルトショップを経営していたが、当時のダ●チワイフは空気漏れが多く実用的でなかったことから、根本的な改良に乗り出し、ダ●チワイフ製造会社、オリエント工業を起業したという。 その際、親交のあった脳神科医から障害者が●行為を行うこともままならぬ状況におかれながら風俗嬢にも相手にされないなどの実情を知ったことによるものである。 同社によれば開業当時は障害者へ向けての販売しかせず、障害者手帳のコピーの提示を必要としていた。 その後、高齢者、独身男性など徐々にハードルを下げ、購入は原則として通信販売だという(この項続く)。 世にも奇妙な展覧会(後篇) 4.展示にも工夫が(続き) また、不要になった際には同社に郵送すれば「里帰り」として引き取り、人形供養を行うサービスもある。う~ん、この会社ただものではない。 また、シリコン製のドール発売当時はその販売価格が50万円以上にまで跳ね上がったため、当初は初回50体の受注生産を行う予定であったという。 ところが、受け付け開始からわずか20分で注文数が120体となり、新規の受注を3ヶ月間停止せざるを得ないという事態に陥ったという。 このように同社は本物志向なのである。 さて、会場ではしゃべるパーティードールもある。片方のおっぱいを揉むと、もう片方からドリンクが出てくる。なんのこっちゃ。 写真家の篠山紀信がラブドールをモデルに撮影した写真作品も展示してある。 また、実際にドールを触ることが可能なコーナーやパワースポットなども設置してある。 5.未来はアンドロイドの世界 こういう展覧会ってのは掟破りだよねぇ。だって、こういう人形を間近に観る経験など普通は二度とないよ。 だが、冷静に考えれば、この技術はアンドロイドや医療用に活用できるはずである。 実際、2010年には歯学部生の訓練用として昭和大学歯学部が患者ロボット「昭和花子」の軟部組織再現に技術協力するなど、医療分野にも進出を始めている。 未来はダ●チワイフの技術によって明るいかも知れない(この項終り)。 ジャンル別一覧
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